2022年度中学入試合格体験記

2022年度中学入試に合格した卒業生と、その保護者の方々の声をまとめました。是非ご覧ください。

Aくんより 武蔵中学校進学

僕は2月3日海城中学の中学入試を終えたあと、武蔵中学校の入試の結果を聞いた。結果は合格であった。武蔵中学校の合格をきいたときは泣きそうなくらいうれしくなったのと同時に自分が合格をしたことが全く信じられなかった。

もともと僕は、主観的であり、武蔵中学校が求める客観性はほとんどなく、武蔵中学校に合格するなど夢のまた夢であった。小学4年生のときは、頭の中で問題が整理されてしまうこともあり、紙に書いて整理することがとても少なかった。その影きょうは小学5年生の後期にあらわれた。5年生前期のころは成績が安定していたものの、後期となってくると、成績が不安定になってしまい、頭の中でとける問題もへっていき6年生前期には、成績は落ちる一方となってしまった。6年生10月になって、やっと、自分で、手で書いて整理しようという気持ちが芽生え始めた。

成績が不安定なころにあった面接で決まった1月全落ちを防ぐためのものとして西武文理があった。1月12日西武文理の算数では間違えてはならぬ問題ばかりであり、何度も検算をした。しかし見落としてしまったミスが一つあった。それによって、満点のとれたテストも満点ではなくなってしまった。

ここで、じぶんはもう、自らの手で、今までの苦労をムダにすることをしてしまったことがとてもくやしくなり、もう二度と、このような後悔の残る失敗はしまいと思うようになった。その思いが力となったのか、1月下旬には、算数成績が格段にアップしていた。しかし、算数がなんとかなっても国理社の成績が悪ければ武蔵が合格するはずもない。特に理科は最後の練習までひどかったので、武蔵が合格できたのには信じられなかった。

話は変わり、ぼくが中学受験のなかで最も大切だと考えるのは、失敗しても成長をすることである、先程書いた西武文理のときのように、くだらないミスをして、とれたものがとれなくなると、ぼくはとても悔しくなる。そのときはこれが2月1日の本命ではなくよかったと立ち直り、感じた悔しさを力にかえて同じ失敗をしないようにする。そのような経験をさせてくれるのは、鼎進学教室である。

今まで主観的でダメダメであったぼくを武蔵に受かるまで育ててくださり、ありがとうございました。

Aくんのご両親より

『受かりたいはあったけど、受かるとは思わなかった』
武蔵合格を伝えたときの彼の一言が、私達の心情を端的に表しています。

私達が、本格的に鼎のお世話になったのは、小学3年の2月からでした。最初のころは、授業の進度に付いていけるのか、不安な面も多く、中学受験についても、前向きに頑張れる範囲でやってみようと、少し軽い気持ちでスタートしました。
志望校の選択では、先生方のアドバイスに従って、早い段階で数多くの学校見学に行くことから始めました。
最初に訪問したのが、4月終わりに開催された武蔵中学の記念祭でした。 充実した設備、豊かな自然、対応する生徒たちのホスピタリティの高さ…
大いに刺激を受けた彼と私達は、強い憧れを抱くとともに、高望みであることを承知しつつも、武蔵中学を第一志望とすることとしました。

『第一志望は武蔵』
それは、彼と私達の中で最後まで変わることなく、受験生活の折々で、彼と私達を勇気づけてもくれました。
家庭学習については、計算・漢字等の基礎力の領域で市販の参考書での補完も行いましたが、後半からは、日々の宿題も増えていき、鼎のカリキュラムに一本化していきました。

テストでの成績については、偏差値50台半ばが彼の定位置でした。4科偏差値60越えを目標としていましたが、最後まで届くことはありませんでした。徐々に問題の内容が複雑化する中、彼の面倒なことを嫌う性格は災いし、小学6年の夏期講習前の合不合判定テストでは、偏差値50程度まで低下していました。

夏期講習での頑張りも踏まえ、夏休み明けの向上を期待したものの、9月の合不合判定テストでも、偏差値は向上しませんでした。10月初の保護者面談では、偏差値も然ることながら、記述中心の武蔵の入学試験との相性の悪さも相まって、『全落ちを避けるため、志望校を下げて、武蔵を諦めることも検討してはどうでしょうか』と、苦渋の助言もいただきました。

先の希望が見えず、彼も私達も一番苦しい時期でした。少し弱気にもなりました。ただ、彼自身に武蔵を受験したい気持ちに揺らぎはなかったことから、その時点では判断を先送り、11月の合不合判定テストの結果を踏まえて、受験校を決めることとしました。その後の1ヶ月は、彼自らが娯楽を返上し、朝・晩の学習量を増やし、実力向上に努めていました。 その甲斐があって、成績は(ほんの少しですが)上向きはじめました。

もちろん武蔵合格が難しい現実に変わりはありませんでしたが、傍で彼の努力を見ていた私達としては、彼の希望を尊重し、武蔵を受験することを決めました。12月の最後の保護者面談では、2/1武蔵受験を前提に、全落ちを回避するための受験プランを、先生方と相談させていただきました。

1月受験校や2月午後受験校の追加、第二志望以下の複線化、等々、彼の性格と試験問題の相性も踏まえた的確なアドバイスにより、彼の受験プランは確定しました。 それと同時に、彼と私達の覚悟も決まりました。

年が明けると、早々に、埼玉受験が始まり、怒涛のように月日が過ぎ去りました。 コロナ禍の受験影響に関する情報収集、日々の体調管理・モチベーション向上に腐心しました。彼と私達は、第一志望の合格という成果を得ることができて、とても幸せです。

一方、高い壁でも勇気をもって果敢に挑んだこと、結果を得るための努力を続けたこと、自らを信じて最後まで諦めなかったこと、これらの経験を通じた彼の成長こそ、最大の財産とも感じています。今回の経験が、今後の彼の人生の助けとなることを確信しています。

憧れて止まなかった武蔵生に、この春からなれる彼に、心からのおめでとう
大きな病気・怪我を患うことなく、受験生活を全うさせてくれた妻に、心からのおつかれさま 何より、いつも暖かく見守り、ここまで導いてくださった鼎の全ての先生方に、心からのありがとうございました。
私たちの拙い経験談が、これから受験に臨まれる皆様にとって、少しでも参考になれば幸いです。
鼎で学ぶ全ての受験生の皆様に、志望校合格の便りが来ることを祈っております。
本当にありがとうございました。

Cくんより 海城中学校進学

「ここ(鼎)、中学受験用の塾なんですよ...。」それが初めて鼎に足を踏み入れ(3年生の全国統一小学生テスト)入塾を希望したときに聞いた第一声だった。

母と一緒に鼎の先生から聞いた第一声はあまりの成績の悪さによるもの。最初の組み分けは超低成績、にも関わらず何の危機感も抱かずに5年になり、6年になり、5年の後半から社会で多少やる気は出すがそれ以外は相変わらず。国語は小町谷先生が担任になってから改善。

しかし11月半ばの面談、自分も同席すると理科がひどい言われ様。続いて12月頃の面談でも何も変わらなかった。しかしクリスマスのあたりから理科の復習を始め最後の1週間でもクラスの人達のお陰で改善。算数はとれる問題をおとし、習ったことを使わず時間がかかった挙げ句間違える。

どの問題を解いてもそんな感じ。人として低レベルで話の聞き方も悪く、分からなくなったらすぐ適当に相槌を打ってきたことに天罰が下ったのだとしか考えられない。1月受験では栄東○で調子に乗り他の人と喋り自由時間をもてあましてしまう。立教新座は算数で2問凡ミス。しかし他の教科でカバーして合格。

そして迎えた2月1日、短時間かつ大して手が動かない幸先の悪いスタートで試験中もダメダメだった。(悪い意味で)いつも通りの手応え。鼎で見て、次々と発覚する凡ミス。もう2日、3日で頑張る決心は固かった。

城北の試験日、塾では前日より早く来、手を前より動かして出陣。すると国語で内容が掴めず理科は手も足も出ず崩壊。希望を失った。しかし奇跡といっても過言ではないことが起きた。父の口から「海城合格」の言葉が聞こえたのだった。算数多数、理科3問、社会2問もミスをしたのに。不思議な気持ちになった。それと同時に終始この愚か者を変えてくれた塾の先生達、出来損ないの息子を精神的に支え当日まで応援を続けた両親への感謝の気持ちでいっぱいになっていた。

Cくんのお父さまより

受験二日目の帰り道、初日に受験した海城中学の合格発表の結果を伝えると、「よしっ!よしっ!」と拳を握りしめ、顔を紅潮させて喜んだ息子の横顔はとても眩しく、私自身にとっても、かけがえの無い思い出になりました。

いまから約4年前に海外から帰国した頃、様々な環境の変化から、日本での生活・学校にもなかなか馴染めず、息子をはじめ家族共々、鬱屈とした時期を過ごしていた中で、小学四年生になった息子を塾に通わせようかと考えたのも、最初は「何となく」という感覚で、中学受験に臨む姿勢も曖昧なものでした。

鼎進学教室に入塾を決めたのは、試しに通わせた3年生の夏期講習から帰った息子が母親に「夢みたいな場所だった、あそこに行きたい!」と、これまでどうしてもこれをやりたい、といった主張の無かった息子の口から珍しく、強い希望を聞かされたことが決め手でした。

しかしながら、そうは言っても入塾時点の偏差値は30台(社会の偏差値は20台?)。帰国子女にとって、多少なりとも日本語や学習カリキュラムのハンディキャップも有り、またそもそも何事においても人一倍時間と努力が必要な本人の性質も踏まえると、受験なんて出来るのかな?とはいえ、何もせずに小学校の時間を過ごすよりは、マイペースでも勉強を続ければ、きっと何かプラスになるだろうと、そんな感覚の両親と息子の受験が始まりました。 4年生の間はそういった感覚の延長で過ごした様に思いますが、元々の成績が「伸びシロしか無い」状態だったので、本人の頑張りで(途中から親も最低限のサポートは行い)、緩やかに成績が上向き、偏差値も30台、40台から漸く50に届くところまで来ると、本人もだんだん勉強が面白くなって来た様でした。

5年生になると、勉強量もぐっと増え、テキストの難易度も高くなり、塾の勉強に付いて行くのが大変そうでしたが、本人が「1組のクラスに入って、○○先生の授業をどうしても受けたい」「○○君と一緒のクラスで勉強したい」と言うので、いくつかの教科の宿題(予習)に付き合う様になりました。この辺りから、塾に通う時間も長くなり、気持ちや心構えも受験生らしくなって行きました。

第一志望の海城中学との出会いもこの頃で、学園祭に訪れたときの印象として、私学の充実した施設や立派な学園祭を運営する中高生の先輩達の様子に大いに刺激を受けた様で、ここを目指して勉強するという本人の気持ちが固まりました。 (とはいえ、偏差値は漸く50台半ば。。まだまだ努力が必要でした。

6年生になると、連日連夜の塾通いが始まりました(大部分は塾での学習、親は基礎の抜け・漏れをフォローする程度。本人は朝から晩まで塾におり(自習も含め)、家族や学校よりも、塾での時間を最優先。厳しくも優しい叱責を先生方から日々頂きながら、他の塾生たちと悪戦苦闘しつつも勉強に励んだ濃密な時間は、息子にとってかけがえの無いものでした。但し成績については、全ての受験生が本腰を入れて勉強をしていますので、簡単には伸びて来ず。何とか偏差値60が目前まで来たものの、遂に最後まで60を超えることは有りませんでした。受験の素人である親としては、偏差値50台で果たして海城中学に合格出来るものなのか、途中、判断を迷う気持ちも有りましたが、成瀬先生をはじめ、プロフェッショナルな先生方が、受験校対策・アドバイスを、息子や両親にしっかりと行ってくださり、最終的には海城中学を第一志望から変える事無く、入試本番に臨みました。

そして、受験当日も早朝から塾で“活入れ”をして頂き、結果は無事に合格。
改めて受験を振り返っても、やはり息子の場合は、鼎進学教室に入っていなければ、決して海城中学に合格することは無かっただろうと思います。 小学校から帰ると、ランドセルを置いて、一目散に塾に向かうその背中は活き活きとしており、彼自身がそこで「個」として尊重され、存在できる「居場所」を具つけた様でした。 信頼し尊敬する「先生」と出会いや、同じ目標を目指す「仲間」と切磋琢磨し合える関係を持てた息子は幸運であり、本人の人間的な成長を喜ばしく感じることが出来ました。

また勉強を通して、困難に向き合う姿勢や心構え、それを乗り越える忍耐や努力。思考力や想像力、知識によって、自身の関心・世界を広げて行くことなど、受験勉強の目的・結果以上に本質的な「学び」の機会を頂き、その様なかたちで指導・教育を頂いたことに、心から感謝しております。
3年間、本当に有難うございました。

Eくんより 桐朋中学校進学

ぼくは5年生の終わりごろにサピックスから鼎進学教室に転塾をしてきました。サピックスにいた時は授業があまり頭に入ってきませんでしたが、鼎にきてからはだいぶ分かりやすくなりました。そして6年生になってからは成瀬先生と岡本先生にも、教えてもらえるようになりさらに授業が分かりやすくなりました。

また授業外でやる算数の復習ノートには、どんな書き方でかけばいいのかを教えてくれたり、ノートにかく丸の大きさも調節してくれたりしました。また、志望校は入って最初は特に決めていなかったのですが、大体10月ごろに決まりました。

最初に受けたのは栄東中学校でしたが、A日程B日程と2回ある試験に両方とも落ちてしまいました。その事が原因となり次の入学試験の立教新座までの間も気を引きしめて勉強することができました。すると合格でしたが、終わってからの7日間は2月1日に向けて、何個かのクラス分けのあと、たくさんの過去問に取り組みました。

そして、前日の31日には今までの卒業生が来てくれて壮行会を開いてくれました。そこで卒業生の話を聞いたり、試験の間に食べる糖分補給のためのチョコレートなどをくれました。そして合格することができました。 サピックスから鼎進学教室に転塾をしてよかったと思っています。

Eくんのお母さまより

大手進学塾から鼎に転塾したのは5年生の12月でした。中学受験はチャレンジしたいが勉強についていけない、何から手を付ければいいのか見当がつかない、どこを目指せばいいのか分からない、ただ受験まで時間がない。焦りと苛立ちの塊だった息子の基礎学力を叩き直し、目標を定め、ゴールヘの道筋をつけてくださったのは鼎の先生方でした。

通常の授業時間に加えて課題をこなす時間を捻出するために学校から直接塾に行っていたため、朝家を出たら帰ってくるのは23時近く、という生活が始まりました。この生活に途中で音を上げるのではないかと心配しましたが、本人は一度も塾に行くことを嫌がることなく、勉強や成績に関して親は見守るのみで先生方にお任せしていました。

反抗期も加わり家庭内で争いが絶えず、いっそのこと受験を辞めようかと先生に相談したこともありましたが、先生方はいつも子どもの気持ちを優先してくださいました。 息子にとっても厳しくも熱く本気で接してくれる大人に会ったのは初めてだったのではないでしょうか。

終的な志望校を決める12月の面接で「桐朋の名前を出して下さった時は思わず、「それは無理じゃないですかねぇ」といってしまい、小町谷先生と成瀬先生からの「大丈夫でしょう」との力強い言葉を懐疑的に捉えていましたが、粛々と過去問に取り組み徐々に自信をつけて前を向く息子の姿に、このまま最後まで子どもを信じて走り抜ける勇気をもらいました。

受験当日は朝焼けのなか鼎に向かい、ウォーミングアップをしてから先生方と一緒に皆で桐朋に向かったそうです。 いつものように送り出してくださり、リラックスした状態で今まで積み重ねてきたものを一気に発揮できたのではないかと思います。

夏はアロハ、クリスマスはミニスカサンタ姿で帰宅し、親の想像を超えてきた息子は、何度か「前の塾では先生が何を話しているのか理解できなかった。鼎では同じ単元でも先生の説明がすっと頭に入ってくる。鼎に通えてよかった。」と話していました。他塾では今回の結果に決して結びつかなかったと痛感しています。

子ども相手だからと手を緩めず精神誠意向き合い、未熟な親子を最後までご指導くださった先生方には感謝致しております。

Gくんより 桐朋中学校進学

僕は5年生の春から鼎に入りました。5年生からまあまあ成績が良くてうかれていたのですが、周りにどんどん追い抜かれていき、とてもあせりました。でも、日々復習ノートなどをやっていたことで、基本はできていくのを感じ、少しあせりが消えました。

夏期講習や冬期講習中、第一志望の学校はおろか、1月10日の栄東にも受からないんじゃないかと思うとこもありましたが、鼎の先生方の指導により、栄東に合格することができ、立教新座にも合格しました。

そのことがあったので、第一志望の学校も受かるだろうと心の中では思っていました。しかし入試はそこまで甘くなく、落ちてしまいました。落ちるのは初めてだったので、とてもショックでした。だから第一志望の学校のときよりも手応えがなかった第二志望の学校は、もう受からないだろうと思い込み、絶望を感じていました。

でも、第二志望の学校である桐朋に、受かっていました。それが分かったときは、公共の場であることを忘れて、狂喜乱舞しました。桐朋の合格も、鼎の授業のおかげです。ありがとうございました。

Iくんより 学習院中等科進学

ぼくは4年生の終わりから鼎進学教室に行きました。最初は先生のやり方がぜんぜんできなくて、毎回テストは偏差値50くらいでした。6年生になっても自分は受験生だ、来年の2月1日には受験だという自覚が足りませんでした。

しかし、夏休みから猛特訓することで偏差値も57、算理は60を超えました。しかし、11月半ばから自分の健康のことを考えずにいたせいか、菊池病という40℃近い高熱と吐き気が続く病気になりました。やばかった時はトイレにもお風呂にも行くことができないほどでした。

しかし、両親や先生が支えてくれたので3週間後回復することができました。自分の実力を取り戻すために朝から11時までの勉強を2週間続けました。だんだん調子も良くなってきた中、12月25日悲劇が起こりました。また頭痛や発熱が起きたのです。そこから特に吐き気がすごく、まともに生活もできませんでした。ぼくは2週間の自分の行動がはずかしくなりました。病気になっても自分は何も学びませんでした。あの2週間がトラウマになってしまいました。入院もしました。左腕に管が通っており、夜もピーピーと妙な音を出す機械の横で寝ました。注射は1日に3回ほどしました。ご飯も食べられないので苦しかったです。

やっと退院してもぼくはやる気が起こりませんでした。しかし、先生や父がやる気を出させてくれました。毎日一教科だけでも勉強して、どんどん回復していきました。そして1月25日に立教新座を受けました。結果はダメでした。慶應を受けようかとても迷いました。でも受けることにしました。これまでずっとやってきたものを無駄にはできないという感じでした。そこからの一週間は死ぬ気でやりました。何としても受かりたい、そういう気持ちでした。2月1日当日ようやくこの日が来たと思いました。しかし緊張はしませんでした。むしろ志望校を下げることなく、ちゃんと受かることができたのはとても嬉しいことだと思いました。

そして2月2日の学習院で受かることができました。慶應には受からなかったけど、悔いはありませんでした。5週間も病気になったというのにここまでこれたのは先生や両親のおかげでした。ぼくにとって受験は大切な思い出となりました。

Kくんより 桐朋中学校進学

僕が本格的に通い始めたのは3年生のころからで、まだそのころは真面目にやらず必要最最低限のこと もやらないという受験生とは言い難い受験生でした。

4年生になると人数が増え授業回数も増えてだんだんと本格化してきました。また、算数はとにかく数字になれてその上で技術などを磨いていくということをやり、国語は読解というものをするためにあらゆる印を付けるのでその印のつけかたや、国語で言う知識(漢字や季語や俳句など)を学んだりしました。理科では主に知識を学びそれを応用する形でプリントなどをやっていく形でした。社会は大方理科と同様で知識は覚え方を交えて学びました。

5年生になると算数が成瀬先生に変わりペースが速くついていけないのかもしれないと思った時期もあ ったが反射的に動いていたためその場だけうまくいくということが何度もありましたがそれ以外は努力が出来なったためにおもうように結果が出せない日々が続きました。国語は良い結果が出せる日々があったり悪い結果の日があったりと成績が安定しない教科でしたが悪い時は以前の悪い時よりも良くすると言う目標をもってやってきました。

理科は4年生とはちがい計算をして答える問題や知識を答える問題に分かれて僕はひたすら知識を頭に入れることが嫌いだったので計算をする問題を好んでやっていたため理科という教科は悪い結果のままでした。社会は歴史よりは地理のほうが得意だったため歴史をがんばるという目標をもっていたがその目標は6年生でやっと達成されました。

6年生になると具体的に目標をもってとりくむようになりました。言われたことをやるなどといった大きな目標目的ではなく、4科それぞれの1週間でも一ヶ月でもいい目標を立てるようになりました。

先程から目標目的の話をしてきたが目標とはターゲット、ねらいなどといった意味がある。この目標は甘すぎるものでもなく高すぎるものでもない自分に見合った達成できる目標を立てる事が重要で理由は達成できるからこそ成長できるからです。ですが僕はその目標を達成できなかったため1月の試験はやることをやらず全て不合格でした。ですが、切りかえて2月1日の試験に向けて今できることというものを全力でとりくみました。

第一志望の学校は不合格でしたがとても良い経験となりました。鼎の先生方、今までありがとうございました。

2021年度 合格体験記

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