Gくんより 穎明館中学校進学
穎明館中学校に合格していた。 僕は、3年生から鼎に通っている。3年生の頃は、はっきりと覚えていないが、パズルや計算などをして楽しかった。4年生になり、僕は、少しわくわくしていた。なぜならば渡邊先生の授業がとても楽しかったからだ。5年生になり辛くなり始めた。春、夏、冬の休みが、削られていった。しかし成績は全然上がらなかった。なぜ上がらなかったか。自分は頑張っているつもりだけど、他人から見れば、勉強していなかったからだ。その低い成績を見ても、何も関心がなかった。悲しいとか悔しいなどの感情はなかったから、いつまでも成績は上がらなかった。5年生の終わりの方で僕は、何も努力をしていないのに、鼎や受験勉強から逃げ出した。鼎の先生や周囲の大人に心配をかけた。もっと正確に言えば、鼎の友達にも迷惑をかけた。
6年生になっても逃げた。ただ友達と遊びたかった。その欲求のためだけに、鼎の先生や友達に迷惑をかけてしまった。それでも鼎の先生が、色々な事を正月特訓で詰め込んでくれたからこそ今の僕がいるといっても過言ではない。渡邊先生は、入試前に昔のパスポートを貸してくれた。僕は、先生を何度も裏切ったのに、僕を信じてパスポートを貸してくれたのだ。
4回東京電機大を、受験して、全部×。なぜかって7割を全てで保つのが苦手だったから。守った事は、休み時間の度に廊下に出て酸素を頭に補給した事。 2月4日は、穎明館に行った。必要なことはすべてこなした。鼎に帰ったら、横田先生に〇と告げられた。心の中では、涙があふれていた。合格をもらえるなんて思ってもいなかった。本当の事を言えば、どういう動作や表情をしていいか、僕には、初めての事だから、よくわからなかった。 今後悔があるとすれば、逃げないでまじめに勉強をしておけば、よかったと思う。 これからは、ひたすらがんばりたいと思います。
Gくんのお母さまより
『鼎に通わせて良かったじゃないか。』 2月3日。私に言った父の言葉です。 上の子の中学受験は、日々の復習から、組分け対策、過去問対策まで私が手探りでやらなければいけませんでした。フルタイムで働いているので、できないことも多く、後悔の残る受験となりました。崇に関しては、最初からプロにおまかせした方が良いと考え、鼎の門をたたきました。 壊滅的な学力、幼すぎる言動、色々なことから逃げ回る愚息を見ていて、人様に預けてよい子どもではないだろうと悩む日々が続きました。学習面は、すべてお任せしていたので、子育ての手抜きをしているような罪悪感もありました。
そして受験本番。2月1日不合格。2月2日は、真っ暗な気持ちで朝を迎えました。渡邊先生からお電話をいただき、『これは、崇の受験であり、お母さんの受験ではありません。』 この言葉の本質を理解できないまま、受験会場に向かいました。崇は、右も左もわからないままに、私が勝手に引いたレールの上を走っているだけだと思っていたのです。 2月3日朝。『期待されたって、遊ぶ事を我慢したって、僕は不合格しかもらえない。』と泣かれました。『不合格でも逃げずに受験を続けている崇を誇りに思う。』崇の心には届かない言葉でした。とりあえず鼎に崇をお任せし、自分は、実家に帰りました。
公立中学校にも入学式はあるので、入学式で着る着物を私の母と選んでいたら、気持ちが落ち着いてきました。心配した私の妹も実家に来てくれました。『第1志望決めたら、勉強しなきゃいけなくなるから、決めない。』『“合格できるように頑張る”って言った朝は、鼎をサボる日』普通の塾ならば、退塾させるか、させられるかの崇でした。そんな崇が、不合格と向き合って、明日に向けて鼎で勉強しているなんて奇跡。受験できただけでも良しとしましょう。崇も成長したではないか。そして父が、ぽそり『鼎に通わせて良かったじゃないか。』
そして2月4日。午前中の穎明館を終え、二人で喫茶店に入りました。『旅行に行こうよ。せっかく鼎で教えてもらったから、見たいお寺がある。古墳もいいな。読みたい本もある。』学校の音読すら覚束ない崇を、鼎で中高生新聞の連載小説を楽しめるまでにしていただきました。『高校入試ではさ。模試に向けて、自分で対策して自分で偏差値あげるようにする。2月1日は、国語で落ちたけど、2月2日は、意識して解いたら、国語も解けた。』これは“崇”の中学受験だと初めて私が意識した瞬間でした。 まさかの穎明館合格。合格で喜ぶ崇に聞きました。『なんか私に言うことないわけ?』『鼎に通わせてくれてありがとう。』 『これは、崇の受験であり、お母さんの受験ではありません。』今ではこの言葉の意味がわかります。合格するために、親としてやったことはただ一つだけでした。『鼎に入塾させた事。』これに尽きます。本当にありがとうございました。
