Cさんより 浦和明の星女子中学進学
私が鼎に入学したのは4年生の春です。受験を都立中から私立中に変えて通い始めるようになりました。最初は先生たちが面白くて、習い事感覚で通っていて、ただ出された課題をこなすような日々だったと思います。5年生になりみんなそろそろやり始めるだろうと言う時期になってもダラダラしたり、自ら進んで努力せず「受験をする」と言う実感があまり湧きませんでした。当然組み分けの偏差値も60を行ったり来たりで成長しませんでした。後半になって算数が成瀬先生に変わり、復習ノートの精度を上げるようになったものの、まだまだ自分に甘えていた気もします。そして6年になり、志望校を明確にしないといけなくなり、5年生のときの文化祭で気になっていた(直感的に)雙葉が頭の片隅にあり、もう一度6年生の夏に行っていいのかと思いつつ、雙葉祭に足を運びました。その時私は初めて「ここに行きたい。あのセーラー服を着たい」と強く思うことができ、この頃から私の第一志望は雙葉になり一直線に進んでいきました。とはいってもまだレベル的にかけ離れており、苦手な算数では信じられないような点数を取ったりして大丈夫なのかこいつと言うような感じでした。どれだけ算数に時間を費やしても思うような結果が出ず、成瀬先生から「勉強の仕方が間違っているのでは」と言うお言葉もあり、どうすれば良いのか困り果ててイライラもしていました。理科も秋頃から過去問で思うような点数を取れずにいました。そんな中でも成瀬先生が復習ノートの最後に書いてくれた「やらなかったこと以外後悔とかねぇから!!」というメッセージが私を支えてくれました。努力を続けられたのもこの言葉のおかげです。
何とか調子を前以上下げずに挑んだ最初の入試の栄東ではワクワクしたままで集中しきれず、東大選抜も難関大も落ちました。落ちると言うことを初めて痛感し、難関大はあと1点だったと聞き1点の重みから家で大泣きしました。しかし落ち込む暇もなく浦和明の星に向けてまた進まないといけず、必死になってやっていました。迎えた当日、得意の国語が思うようにうまくいかず、算数では難しい問題が多々あり、やばいと思い、次の理社では社会は良かったものの、理科は全くわからずもうダメかもしれないと思っていました。家の自己採点では算数が2の速さの問題でダイヤグラムを小さく、さらには勘違いもあり、落とせない大問をまるまる落としてしまいました。鼎の合格ラインに届かず、もう無理だと家で号泣し16日は栄東B日程を受けました。ここではかなり手ごたえがあり、ある程度自信を持って帰ることができました。その帰り栄東を出たところで、母から浦和明の星の合格を聞きまた泣きました。その時は信じられず嬉しいのかわからない戸惑いのような気持ちでした。
しかしまだ雙葉を受ける挑戦権を得ただけ。雙葉に向かって走り続けました。何とか苦手な算数を克服すべく最後の1週間では国語を削り、ひたすら算数をやり続けました。いろいろやばいせいで散々怒られ、もうできないとも思いましたが、やるしかないと思い2月1日へ行きました。国語は意外と読みやすく順調に終わり、算数もやれるところはやり、社会は順調。理科もベストを尽くせ、できたと思っていました…。帰って算数を見ると割り算するだけの(1)を落とし最後は三角形の面積を2分の1していないと言う3年生のようなミスをしていて、20点弱失っていました。最後までこういうようなミスを直せなかった自分に本当に腹が立ち1番大号泣しました。2日の吉祥では自分の力を全て出せず、中途半端で終わってしまいました。朝雨の中応援に来てくれた渡辺先生にも大変申し訳なかったです。結果はあと数点で不合格。3日の鷗友もあまり手ごたえはなかったものの、自分の中ではやり切ったのかなとは思います。結果はやっぱり不合格。けれど、鷗友の帰りに私は浦和明の星に行く!と自分の中では決まっていたため、清々しい気持ちで終わることができました。
その後私は浦和明の星に入ることが決まってからすごく気に入ってしまったので、結果的に本当に良かったと心の底から思っています。こんな貴重な体験をさせてもらった鼎には感謝しかありません。3年間こんな私を成長させてくださりありがとうございました。ずっと支えてくれた鼎が私は大好きでした。その鼎の名を汚すことのないように浦和明の星に行っても日々精進していきます。本当にありがとうございました!!
Cさんのお父さまより
「もしもし、もしもし、聞こえないよ?」
1月16日の浦和明の星中学の合格発表。通勤途中の駅のホームで震える手で開いたスマホの画面には「合格おめでとうございます」の文字が。すぐに妻に電話をかけたのですが嬉しさと安堵で胸が詰まってしまって全く声が出ませんでした。
娘は小4の始めに鼎に入塾しました。当時は大手塾に在籍していましたが、手厚いご指導との評判を耳にしてご相談に行くと岡本先生が対応してくださいました。丁寧にご指導いただけそうと感じて入塾を決め、鼎ライフがスタートしました。
4年生の間はまだ手探りでした。志望校もはっきりしておらず娘を連れて学校説明会や文化祭にできるだけ足を運んで娘にとってどんな環境がいいのかを幅広く探していました。受験についてまだ明確に捉えることができていなかったため、鼎に対してもまだ普通の塾との違いがよくわかっていませんでした。それが一変したのが4年生の秋に開催された鼎主催の吉祥女子の説明会に参加した時でした。初めてお会いした成瀬先生が学校に対して様々に家庭側目線で質問していくのにすっかり心惹かれてしまいました。「中学不登校生徒に対するケアの考え方」について突っ込んだ質問をなさった時に、自分が娘の合格までしか考えていなかった事に気付くとともに、塾の先生が入学後のことまで思いを馳せておられることに衝撃を受け、鼎に娘をお預けして良かったと思いました。
また、この日に学校前で初めて「モヒカンの大男」にもお会いする事が出来ましたがこの方がこの後我が家の親子の心の支えになるとは予想さえしていませんでした。
5年生になると勉強の質も量もグッと高まりはじめ、ご指導もレベルが上がって中学受験の最初の大きな壁を感じました。これをなんとか乗り越えられたのは鼎の先生とお友達と楽しく授業を受けさせて頂けたからと思っています。塾の帰り道に今日は岡本先生から怖い話を教えてもらったよと聞いたり、塾の前で娘を待っていたら米袋抱えて出てきたり、渡辺先生とスタバに向かいご褒美のフラペチーノを頂いて出てきたり、、。普段は厳しい授業が続く中でどこか面白い雰囲気をいつも感じておりましたが、この重要性も後に合点がいきました。
6年生になると本当にハードな生活がスタートしました。夜も遅くなり、土日も埋まり始めました。かなりきつい日々を一日一日頑張って過ごしました。娘は志望校がずっと今ひとつ明確になっていませんでした。様々な学校に憧れながらもずっと悩んでいるようでしたが、6年生になると雙葉を受験したいと言い始めその固い決意は揺らぎませんでした。親としては頑張っている本人の意向を最大限尊重したいと思いつつも難易度の面から不安に思っていたところ、面談で一月の浦和明の星の結果で判断しましょうとお話があり、それを前提に受験校を決定しました。
1/10栄東A東大、1/11栄東A難関大はいずれも×。しかも1/11は1点差で娘は大泣きでした。相当な危機感で向かった1/14、早朝の西国分寺駅に渡辺先生がいてくださったのに娘と妻は会えずに電車に乗り込み、LINEをしたら娘は絶対会いたかったとしょんぼりしていました。そして急遽出願した1/16栄東Bに向かう西国分寺駅、今度は渡辺先生にちゃんと会え、激励とカイロを頂き笑顔に。送り届けた後に浦明の合格を目にすることができました。
栄東が1点差で不合格で妻が鼎に相談に行った際には小町谷先生が「それが中学受験のいいところです」と優しく深い深いお言葉をかけていただき親も落ち着くことができました。
2/1は志望どおり雙葉を受験しました。浦明合格後の2週間、本当に一生懸命に勉強していました。受験後、本人は手応えを感じて帰ってきましたが鼎で解き直すと算数にミスが発覚。帰宅後娘は今まで見たことがないほどに泣きました。
必死で前を向いて2/2、雪予報の冷たい小雨の中、吉祥に向かいました。雙葉の発表も出る前でなんとかなんとか立て直した気持ちで吉祥の会場に入ろうとしたら、、、え? 渡辺先生が立っていらっしゃいました。無理言って来ちゃいましたと笑顔の渡辺先生を見て娘は元気をもらい、気持ちの張り詰めていた私は目に涙が。モヒカンの大男に励まされる中年の涙目のオッさんがいる光景は他塾生徒さんにはプレッシャーとなったでしょうか。
結果、雙葉にはご縁を頂けず、その後も2/3まで頑張りましたが、吉報は届きませんでした。それでも親子ですっかり好きになっていた浦和明の星にご縁を頂けて我が家の受験は終了しました。
中学受験は本当に厳しい道のりでした。受験本番はさらに想像を超えるものでした。でもそれを最後の最後までやりきれたのは先生方と娘の信頼関係があったからではないかと思います。時に(頻繁に?)催される楽しいひととき、本気で厳しく叱っていただいたこと、全てはこの信頼関係構築のためにあったのだと今ではよくわかります。
娘は鼎だったから楽しく、強く、最後まで走りきれたのだと思います。最後まで挑戦し続けた娘を誇らしく思います。またそれを支えて下さった先生方には感謝してもしきれません。
成瀬先生、小町谷先生、岡本先生、渡辺先生、ご指導本当にありがとうございました。鼎は娘の宝物だと思います。
先生方、一緒に学んだお友達、皆様の益々のご発展を心から祈念いたします。